鎌倉殿と『歎異抄』|北条政子の手紙
北条政子(ほうじょう まさこ)は、法然上人(ほうねんしょうにん)に何度も手紙を書いていたようです。
彼女の問いかけに、優しく答えられる法然上人の返書が残っています。
政子というと、「尼将軍」として、勇猛な武士たちに毅然と臨んだ女性というイメージしかありませんでした。
彼女は、鎌倉から京都の法然上人へ手紙を出して、何を尋ねていたのでしょうか。悩みがあったのでしょうか。
『歎異抄(たんにしょう)』とも深く関係することなので、北条政子の生涯を追ってみることにしました。
政子は、伊豆(現在の静岡県)の豪族・北条時政の長女として生まれました。
まず、結婚から波乱に満ちていました。親の反対を押し切って、流罪人の源頼朝との恋を、命懸けで貫いたのです。
これが、日本の歴史を大きく変えることにつながるとは、当時の政子には予想もできなかったでしょう。
頼朝は、政子の父という後ろ盾を得たおかげで、東国の武士を従え、その棟梁の座に就くことができました。
政子は、東国一の武将の妻になったのです。これには、とても大きな喜びを感じていたはずです。
その後、頼朝は、強大な権力を誇っていた平家を倒すことに成功します。
頼朝は、鎌倉に幕府を開き、それまで貴族を中心に行われていた日本の政治を、武家中心へと大改革したのでした。
政子は、一躍、将軍の妻となり「御台所」と呼ばれるようになったのです。
では、頼朝と政子の住まいはどこにあったのでしょうか。
鎌倉幕府の旧跡
JR鎌倉駅の東口を出ると、若宮大路が南北に走っています。この大通りは、鶴岡八幡宮に向かって延びています。
源氏は先祖以来、八幡宮を守護神としていました。そのため頼朝は、自分が源氏の正当な跡継ぎだと強調するシンボルとして、広大な八幡宮を建てたのです。東国武士たちの心を引きつけるためでした。そして、その八幡宮の東側に、武家造りの堂々とした屋敷を構え、鎌倉幕府の拠点としたのです。
かつて幕府があった場所を訪ねてみましょう。駅前の若宮大路から金沢街道へ入り、15分ほど進むと、「桜道」と名づけられた通りに出ました。取材時は4月初めだったので、その名のとおり桜が満開でした。通りには、赤くて丸い郵便ポストが立っています。懐かしいなと思ってポストの前を通り過ぎると、清泉小学校の校舎が見えてきました。
この小学校の角に、ひっそりと一つの石碑がありました。「大蔵幕府旧蹟」と刻まれています。うっかりしていると見逃しそうでした。
鎌倉幕府の拠点は2回移転していますが、頼朝から三代将軍までの間は、この小学校の辺りにあったのです。地名をとって「大倉幕府跡」と呼ばれています。
頼朝が鎌倉へ入ると、将軍直属の家臣(御家人)たちも、この近くに争って屋敷を建てました。そのため鎌倉は、たちまち東国一の都市に発展したといわれています。
しかし、800年以上たった現在となっては、その面影は、どこにも残っていませんでした。
源氏山公園の頼朝像
鎌倉には、その名もズバリ「源氏山」という山があります。
頼朝の祖先である源義家が、東北へ遠征する際に、山頂に白い旗を立て、必勝を誓って出陣したといわれています。
昭和40年に、山頂が公園として整備され、頼朝の像が設置されました。どんな公園なのか、見に行きましょう。
清泉小学校の前の桜道から鎌倉駅の東口へ戻って、タクシーに乗ろうとすると、親切な運転手さんが、「源氏山公園ならば、ここではなく、駅の西口からタクシーに乗ったほうが安いですよ」と教えてくれました。「駅から歩いたら、どれくらいかかりますか」「まあ、25分くらいかな」
それならば歩くことにしました。
観光コースになっているので、源氏山へ向かって歩いている人が多くいます。
ふもとからの上り坂は、かなり急でした。休みながら登っていくと、山頂は広場になっていて、頼朝の座っている像が真ん中に建っていました。像の高さは約2メートルあるそうです。
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送中なので、この公園を訪れる人も増えているようです。
(『月刊なぜ生きる』令和4年6月号より)
続きは本誌をごらんください。
『月刊なぜ生きる』令和4年6月号
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