歎異抄の旅
「忠臣蔵」の舞台(2) 切腹を命じられた浅野内匠頭
「愚かな人」と笑えるだろうか。
怒りが、すべてを焼き払った
「忠臣蔵」として知られる赤穂事件は、元禄14年(1701)3月14日に起こりました。
江戸城の松の廊下で、赤穂藩*の大名、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、突然、「おのれ! この恨み……」と叫んで刀を抜き、吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかったのです。
前回は、JR東京駅から、事件の舞台である江戸城の跡地へ向かいました。
本丸跡は公園になっており、多くの観光客がくつろいでいます。その芝生広場の片隅に、「松之大廊下跡」と刻まれた石碑がありました。320年以上たった今でも、刃傷事件の顛末が伝えられているのです。社会に、よほど大きな衝撃を与えたことが分かります。
ではその後、浅野内匠頭は、どうなったのか、追跡しましょう。
「愚かな人」と笑えるだろうか。
怒りが、すべてを焼き払った
浅野内匠頭は、血まみれになった吉良上野介に、とどめを刺そうとしましたが、周囲の人たちに阻まれ、取り押さえられました。
幕府の取り調べに対して、彼は、「恨みがあったので、討ち果たしました」とはっきり答えています。
浅野内匠頭は、平川門から城外へ出され、田村右京大夫(たむらうきょうのだいぶ)(一関藩*の大名)の屋敷へ身柄を移されました。
平川門は、大奥の女性や、幕府の事務方の人々の通用門でしたが、罪人を送り出す門でもあったのです。
地下鉄東西線の竹橋駅から、壕に沿って進むと平川橋が見えてきます。
橋を渡ると平川門です。
ここからも、一般の観光客が江戸城本丸跡の公園へ入ることができます。
現在の平川門をくぐっても、赤穂事件を示すものは何もありませんでした。
しかし、浅野内匠頭は罪人として、網をかけた駕籠(かご)に乗せられ、この門から田村家の屋敷へ護送されたのです。
その日の朝まで、五万三千石の大名として、「殿様」と呼ばれていた彼は、どんな心境でここを通ったのでしょうか。
「風さそう花よりもなお……」
浅野内匠頭が駕籠で運ばれた田村家の屋敷は、現在の港区新橋にありました。
JR新橋駅から西へ向かって歩くと、虎ノ門ヒルズの超高層ビルが見えてきます。その近くの日比谷通り沿いに、「浅野内匠頭終焉之地」と刻まれた石碑が建っていました。この辺りに、田村家の屋敷があったのです。
江戸城内で起こった刃傷事件は、将軍・徳川綱吉を激怒させました。
この日は、ちょうど重要な儀式が行われていたのですが、大混乱を来してしまったからです。
本来は、浅野と吉良、双方の言い分をよく調べてから処分を決めるべきでした。しかし、怒った綱吉は、浅野内匠頭に、即日、切腹を命じたのです。
罪人といっても、浅野内匠頭は大名です。身柄を預かった田村家では、切腹の場は、当然、屋敷内だろうと考え、準備を始めていました。
ところが、江戸城から監視に来た役人が、「庭で切腹させよ」と告げます。
庭先に3枚の畳が並べられ、切腹の場が設けられました。
浅野内匠頭は、遺言を書く時間もありませんでした。そのため、田村家の人々に、家臣が来たら次のように伝えてほしいと伝言しています。
「このことは、かねて知らせておくべきであったが、やむをえぬことであるから知らせなかった。さぞ不思議に思っているであろう……」
あえて曖昧な言い方をしていますが、決して衝動的に吉良上野介を斬ったのではないと言っているのです。つらいことがあり、ずっと耐えてきた心中を伝えたかったのでしょう。
切腹は、夕刻に行われました。浅野内匠頭は、
「風さそう花よりもなお我はまた
春の名残をいかにとやせん」
と辞世をしたため、35年の生涯を閉じたのでした。
彼の歌からは、「風に誘われて散る花を見てさえ名残惜しいのに、今、自分の命が散っていく悔しさは、何ものにも例えようがない」という心情が読み取れます。
*赤穂藩……現在の兵庫県赤穂市、相生市、上郡町周辺を治めていた藩
*一関藩……現在の岩手県一関市周辺を治めていた藩
(『月刊なぜ生きる』令和5年7月号より)
続きは本誌をごらんください。
『月刊なぜ生きる』令和5年7月号
価格 600円(税込)