【12月号 巻頭インタビュー】「患者の喜びは、医師の喜び」

巻頭には二万人以上を失明から救ってきた眼科手術のエキスパート、舘奈保子さんのインタビューを掲載。子どもの頃に事故で片眼を失明した父の思いを受け、「治せる眼科医」を目指した舘医師。そこにはどんな道のりがあったのでしょうか。
二万人以上を失明から救ってきた眼科手術のエキスパート 舘奈保子さん
「患者の喜びは、医師の喜び」
教えてくれた父との物語
『40代から高まる失明のリスク』。
ドキリとするようなタイトルの本を
昨年暮れに出版した
舘 奈保子(たち なおこ)さん。
2万人以上を失明から救ってきた
眼科専門医ならではの分かりやすい
アドバイスが読者に喜ばれているが、
この本が生まれるまでには、
親子二代にわたる
70年余の〝物語〟があった。
子どもの頃に事故で片眼を失明した父、
その思いを受けて
「治せる眼科医」を目指した娘―。
どんな道のりがあったのか。
舘さんの診察室を訪ねた。
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舘さんが年間に扱う手術は約1,000件にのぼる。
手帳には患者名がびっしりと書き込まれ、
前日の手術数を聞くと、
「14人、16眼ですね」と教えてくれた。
夜の10時まで手術が続くことも少なくないという。
中国から来院する患者も多く、
帰国後の治療のため、
大連医科大学など中国の三大学の
客員教授として現地の技術指導にもあたり、
活躍の舞台は広がるばかり。
超多忙の中でも、インタビューには
にこやかに答えてもらった。




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父の右眼を襲った事故
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この精力的な眼科医を生んだ背景を知るには、
父・小川喜代光(おがわ きよみつ)さんの
小学生時代にさかのぼらなければならない。
舘さんが子どもの頃、父親から聞いた話は、
以下のようなものだった。
戦時下にあった昭和17年冬の広島県福山市。
小学4年生だった喜代光さんが
弓矢ごっこをしていた時という。
友達の射た矢がたまたま、喜代光さんの
右眼を貫いてしまう。
当時、破裂した眼を治す術はなく、
傷ついた眼球は麻酔薬もないまま
摘出されることになった。
手術室に運ばれる時、
「私の目をこの子に……。
この子に私の眼をつかってください」
と叫ぶように医師に哀願した母の声は、
今もなお喜代光さんの耳にはっきりと
蘇ってくる。
5年生から復学した。
勉強も体操も一番の少年だったが、
片眼で遠近感を失うと、
球技や跳び箱が難しくなった。
ある日の体育の時間、
跳び箱を安全に跳ぶため、
列を離れて、跳び箱と踏み切り板との
間隔を確かめていると、
「勝手に列を離れる者は、
門柱の横で立っとれ!」
と一方的に叱られた。
理由を一言、聞いてさえくれたら
話すことができたのに……。
あの頃を回想し、
「機会を奪われるということは、
悲しいことだ」
と述懐する父の思いは、
娘の胸にも深く刻まれていく。
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京都大学眼科学教室へ
「最先端の手術を身につけたい」
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舘さんは、目の患いで苦しむ人をなくしたいと、
昭和60年、神戸大学医学部を卒業し、
京都大学眼科学教室の門をくぐる。
そこで出合ったのが、彼女の人生を決定づけることになる
「硝子体手術(しょうしたいしゅじゅつ)」だった。
「壊れた眼の網膜を回復させる
画期的な手術です。
父の眼もこの硝子体手術があれば、
救うことができたのです。
こんな手術ができるようになりたい
と思いましたね」
と舘さんは振り返る。
だがまだ黎明期にあった
硝子体手術のできる医師は限られ、
まして眼科一年生には
まだ「高嶺の花」でもあった。
(・・・12月号本誌につづく)
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“ 患者さんの苦しみは医師の苦しみ
患者さんの喜びは医師の喜び ”
と語る舘医師に大きな影響を与えたのが
お父様です。
本誌では、幾多の困難を乗り越え
硝子体手術の専門家として
活躍されるようになった経緯や、
患者さんとの思い出深いエピソード、
世のため人のために生きるお父様の教えなど
を語っていただきました♪
読後、じんわり心が温まりました(#^^#)
寒い季節に、『月刊なぜ生きる』を読んで
心の休息をいかがでしょうか?



