【試し読み】『平家物語』に登場する武将・熊谷直実と『歎異抄』|歎異抄の旅

法然上人のお弟子の中には、『平家物語』で有名な武将がいました。

熊谷直実です。

源義経の軍勢に加わり、平家と戦っていた荒武者が、どうして仏教を聞くようになったのでしょうか。

鎧を脱ぎ、刀を捨てた直実は、墨染めの衣に身を包み、仏教を伝えるようになったのです。彼の心の変化には、『歎異抄』の教えに通ずるものがあります。

熊谷直実に、大きな転機を与えたのが、一谷の合戦でした。兵庫県神戸市の古戦場を訪ねて、直実の心の軌跡を追ってみましょう。

一谷の合戦はこの辺りで繰り広げられた(兵庫県神戸市須磨区)

一谷の合戦

親鸞聖人が9歳で出家された年に、平清盛が病で亡くなりました。それまで、都で権力を握り、栄華を極めていた平家の勢力は急速に衰えていきます。

源氏の大軍が迫ってくると、恐れをなした平家は、自らの屋敷を焼き払い、一族そろって京都から脱出したのです。

悲しい思いで船に乗り、九州へ逃れた平家でしたが、その後、瀬戸内海沿岸の豪族を従え、勢力を盛り返すことに成功します。

再び京都へ入って権力を握ろうとして、一谷に十万余騎の軍勢を集結させました。現在の兵庫県神戸市須磨区の辺りです。

ここは、山と海に挟まれた細長い海岸です。背後の山は切り立っているので、敵が攻めてくる心配はありません。海岸の西と東の入り口を守れば、堅固な要塞を築くことができます。

一谷には、平家の目印である赤旗が、風に吹かれて無数にひるがえり、まるで赤い炎が勢いよく燃え上がっているようだったと『平家物語』は記しています。

これに対し、源氏の軍勢は二手に分かれて京都を出発しました。

源範頼が率いる本隊は五万騎で海沿いを進み、東側から一谷を攻めます。

別動隊の源義経は、一万騎を率いて西側から一谷を攻撃する計画です。熊谷直実は、源氏の武将として義経の軍に加わっていました。

源氏軍は、一谷の西と東から攻め込んだ

寿永3年(1184)2月7日。早朝から、激しい戦闘が始まりました。

しかし、源氏は平家を破ることができません。戦いの流れを一気に変えたのが、源義経の奇襲戦法でした。背後の険しい山から馬で急斜面を駆け下りて、次々と平家の陣営に火を放ったのです。これが、世にいう「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」です。

全く予想もしていなかった方角から源氏が攻めてきたので、平家は大混乱。慌てて、海へ向かって逃げていきます。

一艘の船に、重い鎧を着た武者が四、五百人も駆け込んだのですから、たまったものではありません。岸を離れると、すぐに沈没してしまった大船が、三艘もあったといいます。

悲劇は、それだけではありませんでした。先に船に乗った者たちは、「身分の高い人を乗せてもいいが、雑兵どもは乗せるな」と言って、船に取りすがる人たちの手を、太刀や長刀で、次々に斬り払ったのです。

仲間が斬られていく光景を見ながらも、平家の武者たちは、「助けてくれ」「俺だ、乗せてくれ」と叫んで、船に取りつき、手を伸ばしてきます。情け容赦なく、ある者は腕を斬られ、ある者はひじを斬られ、海へ沈んでいくのでした。

「われこそは、日本一の剛の者、熊谷直実なるぞ!」

源氏の武将・熊谷直実は、どんな戦いをしていたのでしょうか。

実は、敵陣への一番乗りを目指していたのですが、ともに戦っていた息子が負傷してしまったのです。介抱していたため、思う存分、活躍することができませんでした。

「出遅れてしまった! 何としても手柄を立てねば!」と焦る直実。

「平家の武者は、船に乗ろうとして波打ち際へ逃げるに違いない」と言って、海岸へ向かいます。

すると、沖の船を目指して馬を泳がせている武将を見つけたのです。兜や鎧、りっぱな馬を見ても、身分の高い武将に違いありません。

平敦盛を呼び戻す熊谷直実の場面を表すモニュメント(兵庫県神戸市・須磨寺)

直実は扇を上げて招きながら、大音声で叫びました。

「そこに行くは平家の大将と見受けたり。敵に後ろを見せるとは、卑怯千万。返せ、返せ!」

さらに、「われこそは、日本一の剛の者、熊谷直実なるぞ。いざ、尋常に勝負せよ」と名乗りを上げたのです。

波間かなたの武将は、「おうっ」と答え、引き返してきます。

双方、だっと馬を進めて、駆け寄りざまに斬り合います。

しかし、力の差がありすぎました。平家の武将は、たちまち刀を払い落とされ、直実に組み伏せられてしまったのです。

合戦のならわしに従い、敵の首を斬ろうとした瞬間、直実の手がピタリと止まりました。兜の中は、荒武者ではなく、薄化粧をした若者だったからです。

年は16、7歳に見えます。負傷したわが子と同じ年頃でした。

「この子にも、親があるだろうに……」

こう思った時、直実の心は、もろくも崩れていました。

「俺の名を聞けば逃げ出す者ばかりなのに、そなたは、恐れずに馬を返した。あっぱれだ。名は何と申す」

若者は名乗りません。

「さあ、早く討て。戦で死ぬは武士の本望。この首を味方に見せて聞くがよい」と言い切ります。

直実は、考え込んでしまいました。

「ああ、りっぱな武将だ。この若者一人を討ったところで、戦の勝敗は変わらない。源氏はすでに勝ったのだ。助ける方法はないだろうか……」

その時、後方から源氏の軍勢が五十騎ほど、こちらへ向かってくるのが見えました。

直実は、涙をこらえて言いました。「助けたいのはやまやまだが、決して、逃げることはできないだろう。他の者に討たれるくらいならば、この直実の手にかけて、後の供養をいたそう」

直実は、若者があまりにもかわいそうで、どこに刀を刺してよいかも分からず、目の前が真っ暗になりました。しかし、泣く泣く首を討ったのです。

倒れた若者の腰には、錦の袋に入った笛が差されていました。

「味方に東国の軍勢が何万人もいるが、戦場に笛を持ってきた者はいないだろう。なんと心優しい武将だろうか……」

深い因縁を感じた直実は、遺品として笛を預かることにしました。

直実が、味方の陣に帰ってから、この若者の素性を尋ねると、平経盛(清盛の弟)の子で、名は敦盛、17歳だったと分かりました。

源義経は、「今日の戦いの中で、抜群の功名である。後に恩賞をとらすであろう」と直実の働きを称賛したといいます。

しかし、直実は、がっくりと膝をつき、こう述懐するのでした。

「釈迦は、『諸行無常』と教えられたと聞くが、まことに、すべてのものは無常だ。どんなに威勢のよい者にも、必ず衰える時が来る。

今、平家が没落していくように、源氏もいつまで続くことか……。いや、人ごとではない。わが身の命は、どうなのだ。明日まで生きておれる保証は、どこにもないではないか。

いくら戦とはいえ、俺は殺生の限りを尽くしてきた。恐ろしい罪悪を重ねてしまった。こんな俺は、死んだら、どうなるのだろう……」

この時から、熊谷直実は、出家して仏教を聞き求めたいという気持ちが強くなったのでした。

(『月刊なぜ生きる』令和3年4月号より一部抜粋)

熊谷直実は「死んだらどうなるのか」という不安な心を解決するべく、法然上人から仏教を聞くようになります。

多くの人を殺してきた自分でも救われる道があるのかと絶望する直実に対して、法然上人は善人も悪人も差別なく救う阿弥陀仏の本願を説かれます。

そして、日本一の剛の者、熊谷直実が蓮生房と生まれ変わったのです。

本誌では、出家した熊谷直実と、平敦盛の妻子との因縁深いエピソードも紹介しています。



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