【試し読み】哲学の道と歎異抄|歎異抄の旅
哲学の道──、京都の有名な観光スポットの一つです。どんな道なのでしょうか。もしかして、難しい質問に答えないと通れない仕掛けがあるとか……? それは行ってみないと分かりませんが、ここも、『歎異抄(たんにしょう)』と深い関係がある場所なのです。
『歎異抄』を非常に尊重していた哲学者
西田幾多郎が好んで歩いた道
若王子橋のそばに、「哲学の道」と刻まれた石碑が建っていました。ここから銀閣までの約1.6キロメートルの散歩道が、「哲学の道」と呼ばれているのです。
「哲学の道」といっても、特別な仕掛けはありませんでした。
小川に沿って、樹木の間を散策する道です。道幅も狭くて、二人で横に並んで歩くことができない場所もあります。
独りで、静かに、何かを考えながら散歩するのに適した道なのでしょう。
春は桜の名所、夏はホタルが人気のようです。私が訪れたのは11月なので、哲学の道には、茶色い枯れ葉が敷き詰められていました。
名前の由来を調べてみると、哲学者・西田幾多郎が、この道を好み、散策しながら思考を重ねたから……といわれています。
西田幾多郎は、明治3年、石川県に生まれました。
明治43年、京都帝国大学に助教授として就任します。後に教授となり、58歳で退官するまでの約20年間を京都で過ごし、その間、『善の研究』を皮切りに、次々と論文を発表していきます。
西洋哲学を踏まえたうえで、独自の思想を築き、日本を代表する哲学者になったのです。
そんな西田幾多郎も、『歎異抄』に強く引かれていた一人でした。
西田幾多郎が、いかに『歎異抄』を重視していたかを、弟子などの記録から拾ってみましょう。
先生は禅だけに止まっていられたわけではなく、それ以外でも例えば『歎異鈔』を非常に尊重されていた。(中略)『歎異鈔』には名刀をつきつけたようなところがあると言われたこともある。
(西谷啓治「わが師西田幾多郎先生を語る」より)
『歎異抄』については、先に紹介したもののほかに、東京・横浜が空襲の際に燃え盛る街を眺めて「一切焼け失せても『臨済録』と『歎異抄』とが残ればよい」と語った。
(名和達宣「西田幾多郎と『教行信証』」より)
西田幾多郎は、論文にも『歎異抄』を何度も引用しています。おそらく、『歎異抄』の言葉の意味を、深く考察しながら、哲学の道を散歩していたこともあったでしょう。
そう思うと、日本の哲学に大きな影響を与えた『歎異抄』の一節を口ずさみながら、この静かな道を歩きたくなってきました。
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