「忠臣蔵」の舞台(3)
吉良上野介は悪人だったのか
相撲の街、両国に、赤穂浪士討ち入りの跡地
ドラマで描かれる「忠臣蔵」のクライマックスは、赤穂浪士の吉良邸討ち入りです。
「主君の仇を討つ」と誓った大石内蔵助はじめ47人の武士たちが、困難を乗り越えて吉良邸へ討ち入り、上野介の首を取ったのです。
元禄15年(1702)12月14日の深夜のことでした。この討ち入り成功のニュースは、たちまち江戸中に広がり、大きな反響を巻き起こしました。
はたして吉良上野介は、殺されてもしかたのない悪人だったのでしょうか。吉良の屋敷跡(東京都墨田区両国)を訪ねて考えてみましょう。
相撲の街、両国に、
赤穂浪士討ち入りの跡地
東京駅からJRで両国駅へ向かいます。西口の改札内に、武蔵丸、白鵬などの力士の巨大な優勝額が飾られていました。すぐ近くには国技館があります。両国は、相撲の街なのです。
吉良邸跡は、JRの線路をはさんで国技館の反対側にあります。駅の東口を出ると、正面に「横綱横丁」と書かれた通りがありました。
横綱横丁の商店街を通り抜けて国道14号線に出ると、「芥川龍之介成育の地」と記された解説板が立っています。
大正時代の文豪・芥川龍之介は、この地で18歳まで暮らしていたのです。彼が通っていた両国小学校のそばには、「芥川龍之介 文学碑」が建てられており、『杜子春』の一節が刻まれていました。
吉良上野介の屋敷跡は、この両国小学校の近くにあります。
吉良邸はとても広大で、東西約132メートル、南北約62メートルもあったといわれています。
現在、「吉良邸跡」は、小さな公園の形で保存されています。当時の屋敷の、ほんの一部の面積にすぎません。
周囲を歩いてみると、両国小学校側の通りに面したビルの前に、「忠臣蔵吉良邸正門跡」と書かれた解説板が、ひっそりと立っていました。
(『月刊なぜ生きる』令和5年8月号より)
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『月刊なぜ生きる』令和5年8月号
価格 600円(税込)