聖徳太子から余命宣告を受けた!?親鸞聖人 |歎異抄の旅

比叡山から大阪へ。

19歳の親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、深い悩みを抱え、聖徳太子の御廟(墓)へ向かわれました。現在の叡福寺です(大阪府南河内 郡太子町)。

▲聖徳太子御廟(古墳)の入り口

私たちは、抱えきれない悩みがあると、信頼できる人に相談したい、と思います。

親鸞聖人は、聖徳太子を尊敬しておられました。聖人よりも約600年も前の方ですから、直接、話をすることはできません。せめて墓に詣でたいと、切実に思われたのでした。

親鸞聖人の悩みとは、何だったのでしょうか。

私たちも、聖徳太子の御廟へ向かい、親鸞聖人の足跡を訪ねてみましょう。

聖徳太子の墓は、なぜ、トンネルの奥なのか?

叡福寺の山門をくぐると、真っ正面の、こんもり盛り上がった山へ向かって参道が続いています。

実は、この山全体が、聖徳太子の墓なのです。

つまり古墳です。

直径約54メートルの円墳です。内部は横穴式石室になっています。山から突き出ている部分が、古墳の入り口です。

▲聖徳太子の古墳の断面図(想像)


親鸞聖人は、建久2年(1191)9月13日から3日間、聖徳太子の御廟へ参籠されました。

比叡山へ登られて、10年が過ぎていました。しかし、今、死んだらどうなるのかと考えると、真っ暗な心しか出てきません。親鸞聖人は、どうすれば「生死の一大事」を解決できるのか、聖徳太子にお尋ねしたいと思われたのでした。

現在、古墳の前にはトンネルの入り口のような建物があるだけで、礼拝するための御堂はありません。親鸞聖人は、どこに籠もられたのでしょうか。

寺の関係者に尋ねてみました。「親鸞聖人が参籠された建物は、どこにありますか」「今はもうありません。織田信長による焼き討ちで全焼してから、再建されていないのです」

なんと! 信長の仏教弾圧は、比叡山だけではなかったのです。「焼かれる前は、どんな建物があったのですか」「室町時代の古絵図を見ると、御廟( 古墳)の入り口に礼堂があります。古来、多くの僧侶が、聖徳太子のお導きを受けようと、この礼堂に籠もったといわれています」

夢の中で、余命宣告を受けた衝撃

残念ながら、当時の建物は残っていませんでした。

親鸞聖人は、この地で、「聖徳太子さま。煩悩に汚れ、悪に染まった親鸞、救われる道がありましょうか。どうか、お教えください」と、祈願を続けられたのです。

そして、第2夜の深夜のこと。

親鸞聖人は、夢を見られました。聖徳太子が現れ、次のように告げられたと、書き残しておられます。

我が三尊(さんぞん)は、塵沙(じんじゃ)の界を化(け)す。日域(じちいき)は大乗相応(だいじょうそうおう)の地なり。諦(あきらか)に聴け諦(あきらか)に聴け、我が教令を。汝が命根(みょうこん)は応(まさ)に十余歳なるべし。命終りて速やかに清浄土に入らん。善(よ)く信ぜよ、善(よ)く信ぜよ、真の菩薩(ぼさつ)を。

このお言葉は、当時の地名をとって「磯長の夢告」といわれています。

意訳してみましょう。

阿弥陀仏は、すべての者を救わんと、力、尽くされている。日本は、真実の仏法が花開く、ふさわしい所である。よく聴きなさい、よく聴きなさい、私の言うことを。そなたの命は、あと、10年なるぞ。命終わると同時に、清らかな世界に入るであろう。よく信じなさい、深く信じなさい、真の菩薩を。

夢だとしても、「そなたの命は、あと、10年なるぞ」の余命宣告は、親鸞聖人にとって、大きな衝撃でした。

「私の命は、あと10年……」

19歳の親鸞聖人は、迫り来る「死」を前にして、再び比叡山へ戻り、厳しい修行に身を投じられるのです。

(・・・本誌につづく)


この記事は、『月刊なぜ生きる』で連載中の「歎異抄(たんにしょう)の旅」に掲載されています。

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