【試し読み】鴨長明と『歎異抄』|歎異抄の旅

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず……」

名文ですね。鎌倉時代の随筆『方丈記』の書き出しです。

著者の鴨長明は、一丈四方(約5畳半)の粗末な庵に住み、自然の中で悠々自適に暮らした文化人として知られています。現代でも、「煩わしい人間関係を離れて、自然の中で暮らしたいなあ」と、長明にあこがれる人が多いようです。

今回は、『方丈記』の著者、鴨長明の足跡を訪ねましょう。

こう言うと、「このコーナーは『歎異抄の旅』ですよ。鴨長明と、どんな関係があるんですか?」という声が聞こえてきそうです。

はい、取材を進めると、実に深い関係があることが分かってきました。鴨長明と親鸞聖人の関係。そして、長明が『方丈記』を書いた目的は何だったのか。順次、解明していきましょう。

鴨長明は、なぜ、山の中に、方丈庵を建てたのか

自分の「死」を見つめると、「この世が終わったら、どこへ旅立つのだろう」「死後(後生)は、あるのか、ないのか」など、次々と疑問がわいてきます。 

このような、「死んだらどうなるか分からない心」を、仏教では「後生暗い心」といいます。「後生暗い心」を解決して、この世から永遠の幸福になることが仏教の目的なのです。

親鸞聖人が9歳で出家を決意し、天台宗の僧となり、比叡山で厳しい修行に打ち込まれたのも、まさにこの目的、一つのためでした。

しかし、親鸞聖人は、天台宗では救われなかったのです。29歳の時に、比叡山を下りて、浄土仏教を説かれる法然上人のお弟子になられたのでした。

阿弥陀仏の本願によって、ハッキリ救い摂られた親鸞聖人のご活躍は、法然門下の中でも傑出していました。仏教界を大改革するために断行した肉食妻帯には、「僧侶が結婚するとは、仏教界の伝統を破壊する行為だ。堕落僧だ!」と、激しい非難が巻き起こりました。

また同時に、都の人々に、「親鸞殿は、浄土仏教の救いには、男も女も、老いも若きも、僧侶も俗人も、善人も悪人も、一切差別はないと言っているが、本当だろうか」と強烈なインパクトを与え、法然上人のご法話に参詣する人々が急増していったのです。その中に、50歳頃の、やせ衰えた一人の男性がいました。人生に挫折し、悲嘆に暮れていることが表情からも分かります。この男性こそ、後に『方丈記』を書く鴨長明だったのです。

長明は、仏教を聞くことによって、みるみる生きる力を取り戻していきました。「法然上人の元で、もっと仏教を聞かせていただきたい」

そう願う長明の夢は、わずか数年後に、国家権力の弾圧によって打ち砕かれてしまいます。後鳥羽上皇が念仏禁止令を出し、法然上人の吉水草庵を閉鎖してしまったのでした。

法然上人は土佐へ流刑。

親鸞聖人は越後へ流刑。

その他、多くの法然門下の人たちが死刑、流刑に処せられたのです。

激しい弾圧の嵐が吹き荒れる中、鴨長明は、法然上人の弟子・日野(藤原)長親に守られるようにして都の東南にあたる山の中へ移り住みました。わずか一丈四方の住まい「方丈庵」を建て、ひっそりと暮らすようになったのです。その場所は、現在の京都市伏見区日野であり、「方丈の庵跡」と、京都市観光協会の名所・旧跡案内にも記されています。長明が暮らしていた跡地が、今も残っているのです。

「方丈石」と呼ばれる巨大な石の上に方丈庵を建てて暮らしていた

方丈庵の想像図

(『月刊なぜ生きる』令和3年3月号より一部抜粋)

このあと、実際にレポーターが方丈庵の跡地へ向かいます。鴨長明が『方丈記』を著した経緯と目的、そして『方丈記』冒頭に記録された京都の大災害を通して、世の無常をつづっています。

全文をお読みになりたい方は、本誌をごらんください。


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