歎異抄の旅【滋賀編】
琵琶湖周航の歌 さすらいの旅が人生

海のように広い琵琶湖の玄関口にあたる、大津港に着きました。

「われは湖の子 さすらいの旅にしあれば しみじみと……」

美しい琵琶湖の自然を歌った「琵琶湖周航の歌」が浮かんできます。

この歌は、大正6年に誕生してから、100年以上も歌い継がれています。

フランク永井さん、都はるみさん、小林旭さん、渡哲也さん、倍賞千恵子さんなど、数多くの歌手によってカバーされてきました。中でも昭和46年に、加藤登紀子さんが歌ったレコードは70万枚の大ヒットを記録しています。

三高の学生が作詞した
琵琶湖周航の歌

多くの人に親しまれている「琵琶湖周航の歌」は、どのようにして生まれたのでしょうか。「歎異抄の旅」の本題に入る前に調べてみました。

この歌は、もともと三高(現在の京都大学)の寮歌だったのです。

作詞したのは三高の水上部(ボート部)の学生・小口太郎(当時19歳)でした。

水上部では、3日から5日間ほどかけて、ボートを漕いで琵琶湖を一周する行事を、明治26年から行っていました。

大正6年6月の琵琶湖一周に参加した小口太郎たちは、大津からボートを漕ぎ出し、一日めは近江舞子に宿泊。

二日めは今津に泊まります。その夜、小口太郎が、「今日、ボートを漕ぎながら、こんな詩を作った」と仲間に披露したのが「琵琶湖周航の歌」でした。

その歌詞は、彼らの心を打ちました。

さっそく、当時、若者の間で人気となっていた「ひつじぐさ」という曲に乗せて歌ってみると、ぴったりと合い、とても盛り上がったといいます。

こうして生まれた「琵琶湖周航の歌」は、三高の寮歌、学生の愛唱歌として広まっていきました。

作詞者の小口太郎は、その後、東京帝国大学(現在の東京大学)に進み、研究者として優れた力を発揮していきます。しかし、26歳で自殺してしまいました。徴兵され、研究を断念せざるをえなくなり、絶望したのではないか、といわれています。

「琵琶湖周航の歌」の元の曲になった「ひつじぐさ」は、吉田千秋が作曲したものでした。20歳の時にイギリスの詩を翻訳し、曲をつけて音楽雑誌に投稿した作品です。

吉田千秋は10代の頃から結核のため学校に行くことができず、独学で7カ国語を習得したという秀才です。しかし病には勝てず、24歳で亡くなりました。

100年以上も歌い継がれる名曲を残した二人ですが、こんなにも短い一生だったとは知りませんでした。

国家権力による束縛や、病気との闘いに直面した二人は、どれほど悔しく、悲しい思いをしたことでしょうか。

こういう事実を知ってから、「琵琶湖周航の歌」を聞いてみると、人の一生とは、広い広い湖をさすらう旅のようなもの……、と歌っているように感じます。

「われは湖の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと……」

心から安心できることもなく、さすらい続けているような、漠然とした不安に共鳴する人が多いので、いつまでも歌い継がれているのではないでしょうか。

まさに、「この世は、火宅*無常の世界」と教える古典『歎異抄』に、通じるものがあります。

*火宅……火のついた家のこと

(『月刊なぜ生きる』令和4年7月号より)

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