歎異抄の旅【新潟】
我が人生は、一酔の夢
上杉謙信と『歎異抄』
東京から北陸新幹線に乗り、新潟県上越市へ向かいます。
上越妙高駅で降りると「上杉謙信」の名が目に飛び込んできました。通路には「義の武将 謙信公」と書かれた旗が立ち並び、駅の東口には乗馬姿の謙信像が設置されています。
戦国大名の中でも、最も有名な武将の一人に数えられる上杉謙信の拠点、春日山城が、この近くにあったのです。
今回は、上越市内の親鸞聖人の旧跡を訪ねる予定でしたが、その前に、春日山城跡に行くことにしましょう。
上杉謙信の春日山城
越後を統一し、最強の武将に
上杉謙信は享禄3年(1530)、春日山城で生まれました。
父は越後(新潟)の国守*に等しい立場(守護代)でしたが、一族や豪族の間で激しい争いが続き、国内は不安定でした。
そんな中、謙信は19歳で家督を継ぎます。戦が上手で、次々に国内の反乱を鎮圧し、越後の統一に成功したのです。22歳の時でした。
これによって国力を充実させた謙信は、北陸地方を勢力下に収めただけでなく、大軍を率いて何度も関東方面へ出陣し、武田信玄、北条氏康、織田信長などの武将から恐れられていました。
上杉謙信の拠点であった春日山城跡は、上越妙高駅から、車で約20分の所にあります。
この城は標高182メートルの春日山の地形を巧みに利用した堅固な要塞で、難攻不落の名城といわれていました。
現在、「日本100名城」「日本五大山城」の一つに選ばれています。山の上に城は残っていませんが、頂上の本丸跡まで登るルートが整備されています。
私が訪れたのは昨年の11月28日。快晴でした。まぶしいほどの青空です。紅葉シーズンでしたので、山全体が赤、黄、緑と、カラフルに色づいています。
ふもとから車で上ると、山の中腹に上杉謙信の銅像が建っていました。昭和44年のNHK大河ドラマ「天と地と」の放送に合わせて制作されたものです。
「天と地と」は、海音寺潮五郎の同名の小説をドラマ化したもので、上杉謙信役を石坂浩二さん、武田信玄役を高橋幸治さんが演じて大ヒットしました。
宿命のライバルであった謙信と信玄が川中島*で激突。双方の兵が入り乱れて戦う中、白馬に乗った謙信が、ただ一騎で武田の本陣へ駆け込みます。
そこには信玄が、泰然と床几(しょうぎ)に腰掛けていました。
馬上から猛然と刃を振り下ろす謙信。
軍配でガシッと受け止める信玄。
緊迫した一騎打ちのシーンが印象に残っている人もあるのではないでしょうか。
ハイキングを兼ねて、春日山に登るシニア層の人たちをよく見かけるのは、ドラマや小説で謙信のファンになった人が多いからかもしれません。
車で上ることができるのは、謙信の銅像が建っている所までです。
すがすがしい風景を眺めながら、舗装された道を数百メートル歩くと、頂上への登山道が現れました。
人一人がやっと通れるような細い階段や、曲がりくねった道を、三百数十メートル登ると、頂上にたどり着きます。本丸跡です。
ここに立つと、上越市内が一望できます。遠くに日本海も見渡せます。
この見晴らしのいい山頂に、謙信の城が築かれていたのです。関東、信濃(長野)、北陸への往来を一目で監視できるので、軍事的にも重要な場所でした。
敵の苦境を救うべきか?
謙信が信玄へ送った手紙
上杉謙信と武田信玄が、川中島で五回めの戦いを終えてから数年後のことです。信玄は、かつてない危機に襲われていました。領内に「塩」がなくなったのです。
塩は「生命の糧」ともいわれ、水や空気とともに、人間が生きていくのに欠かせないものです。
信玄の領国は海に面していないので、塩を作ることができません。それまで、太平洋側からの輸送に頼っていました。
この急所を見抜いた今川氏と北条氏が連携し、信玄の領国への塩の輸送を全面的に禁止してしまったのです。正面から戦ってもかなわない相手への意外な戦略でした。
*国守……現在の県知事に当たる役目
*川中島……現在の長野市川中島一帯
(『月刊なぜ生きる』令和5年1月号より)
続きは本誌をごらんください。
『月刊なぜ生きる』
バックナンバー
『月刊なぜ生きる』のバックナンバーをご希望の方は、恐れ入りますが、お電話にてお問い合わせください。
注文受付センター0120-975-732(平日:午前9時〜午後6時、土曜:午前9時~12時)
お問い合わせフォーム 販売元「思いやりブックス」リニューアル案内
『月刊なぜ生きる』は令和6年4月号から『月刊 人生の目的』として新たにスタートいたしました。
引き続き掲載するコーナーもあります。
詳しくは、『月刊 人生の目的』サイトをごらんください。
https://value-of-life.com/