歎異抄の旅【新潟】
何のために、戦ったのか?源氏の武将と『歎異抄』
「頼朝は、大ウソつきだ!」怒りの佐々木高綱に届いた手紙

吉川英治の小説『新・平家物語』には、源氏と平家の戦いが描かれています。

この長編小説で、吉川英治が問いかけたのは、「人間の幸福とは、どこにあるのか」でした。そして彼が注目したのは、平家に勝利し、地位、名誉、財産などを得たはずの源氏の武将の中に、鎧や刀を捨てて、浄土仏教の門へ入った豪傑が何人もあったことです。

命懸けで戦って得たものは、何だったのか……。これはまさに、古典『歎異抄』のテーマと一致します。

しかも、宇治川の先陣争い*で有名な佐々木高綱が、はるばると越後(現在の新潟県)の親鸞聖人を訪ねてきているのです。高綱に、何があったのか。歴史をひもといてみましょう。

*宇治川の先陣争い……現在の京都府宇治市で行われた宇治川の戦い(1184年)の名場面。

「親鸞聖人上陸の地」を示す案内版

「頼朝は、大ウソつきだ!」
怒りの佐々木高綱に届いた手紙

鎌倉幕府を開き、初めて武家政権を樹立したのが源頼朝です。

13歳頃から伊豆*へ流刑になっていた頼朝が、天下を取ることができたのは、多くの源氏武者による命懸けの働きがあったからでした。

中でも、佐々木高綱の活躍は、頼朝にとって、一生、忘れられないものだったのです。

頼朝が平家打倒を掲げ挙兵して間もなくのこと。石橋山の戦い*で、絶体絶命のピンチに陥りました。味方の兵数300に対し、平家軍は3,000だったといいます。十倍の数の敵に囲まれたのですから、勝ち目はありません。

この時、頼朝の命を救うため、佐々木高綱が一人で敵の中へ打って出たのです。大軍勢を蹴散らしては引き返し、また出撃すること七度に及びました。

*伊豆……現在の静岡県伊豆地方

*石橋山の戦い……1180年、現在の神奈川県小田原市にある石橋山で行われた戦い

石橋山の戦いで、頼朝の命を救うために奮戦する高綱

この高綱の奮戦によって、頼朝は、無事に危機を脱し、逃げることができたのです。 感激した頼朝は、高綱に、「もし私が、平家を滅ぼして天下を掌握することができたならば、そなたに、日本の半分を与えよう」と約束しました。

その後、源氏は勢いに乗り、驚くほどの短期間で、平家を滅ぼします。

頼朝は、悲願がかなって征夷大将軍となり、日本を自らの支配下に置くことができました。

ところが頼朝は、高綱には中国地方の七カ国を与えただけで、約束を守りませんでした。面白くないのは高綱です。

国主となり、広大な領地を手に入れても、日本の半分には、ほど遠い報酬です。酒を飲んでは「約束違反だ!」と、頼朝を非難していました。

相当、荒れていたらしく、「高綱は謀反を企てている」といううわさが、越後にいる西仏房にまで聞こえてきたのです。

西仏房も、元は源氏の武将でした。高綱とは戦友でしたが、早い時期に戦場から身を引き、親鸞聖人の弟子になっていたのです。

『二十四輩順拝図会』*によると、西仏房は高綱にあてて、「残水の小魚食を貪って時に渇くを知らず糞中の穢虫居を争って外の清きを知らず」と書き手紙を送ったといいます。

この短い文章が、高綱の肺腑を突くのですが、どういう意味なのでしょうか。

吉川英治が、この伝承を基に小説を書いていますので、その一部を紹介しましょう。

*二十四輩順拝図会……江戸時代に、了貞が親鸞聖人の旧跡を調査してまとめた書籍

(『月刊なぜ生きる』令和5年2月号より)

続きは本誌をごらんください。

『月刊なぜ生きる』令和5年2月号
価格 600円(税込)