【試し読み】マラソン銀メダリスト・君原健二さん「円谷君のまいた種は、 今も着実に育っている」
福島県須賀川市は「第二の故郷です」──。福岡県出身で、メキシコ五輪マラソン銀メダリストの君原健二さん(80)はこう振り返る。君原さんが、須賀川市で行われた聖火リレーを走ったのは今年3月。胸には、あるランナーの「遺影」を忍ばせていた。その写真は地元出身の円谷幸吉選手。57年前の東京五輪マラソンで銅メダルに輝きながらその後、自らの命を絶った盟友である。半世紀を超えて二人を結びつけてきたものは何だったのか。そこには、42.195キロの闘いの中で築き上げた君原さんの”マラソン哲学”があった。
「今日は、円谷君のために走ろう」
誓いの銀メダル
昭和43年10月20日。メキシコシティで、マラソンのスタートラインに立った君原さんの脳裏に浮かんだのは、円谷選手のことだった。彼がこのレースにいちばん出たかったはずだ。「今日は、円谷君のために走ろう」──。こう胸に誓ってスタートを切った。
標高約2200メートルの高地は酸素濃度が平地の四分の三に過ぎず、レースは壮絶を極める。倒れる選手が相次ぎ、君原さんは17キロ付近で、五輪三連覇を目指すアベベ選手が途中棄権したのを目にした。
自分のペースを守った君原さんは次第に順位を上げ、28キロ付近で沿道から「トレス!(三位)」の声を聞く。間もなく二位に浮上。しかし喜びもつかの間、激しい腹痛に襲われた。残り約10キロ。道端のトイレに駆け込むか、我慢して走るか、どちらのロスが大きいか。酸素不足で計算ができない。
やっとのことで競技場が見えてきた。ふと後ろが気になって振り向くと、なんと、ライアン選手(ニュージーランド)が迫ってくる。その差、約80メートル。「ここまで来たら、抜かれてたまるか」。君原さんは、残りわずかのガソリンをかき集めて火をつけた。「わずかでもロスになるのでふだんは振り返りませんが、この時だけはなぜか、円谷君の声が聞こえたような気がするんです」最後の直線コース。死力を尽くし苦しそうに首を振る走りを、テレビの実況はこう伝えている。「あと10メートル。まるで夢遊病者のようです。君原、歩くように今、ゴールイン!」マラソン日本、二大会連続のメダル獲得の快挙だった。
(中略)
駆け引きは当てにならない
人生もまた同じ
──走る時は、どんなことを考えているのですか。
マラソンは、選手同士が闘っているように見えますが、人との闘いではなく、まさに自分との闘いです。ゴールまで自分の体をいかに速く運ぶか、それがマラソンなのです。平均した速さで走るのが合理的、効率的で、ゴールした時にはもうこれ以上は半歩も走れないほど力を出し切るのが理想です。
駆け引きということがよくいわれます。並走する相手に「ここでスパートすれば、あきらめてくれるだろう」と推測して引き離しにかかるのですが、そんな推測はどうなるか分かりません。これは、勝ちを意識した欲望に負けるということです。
当てにならないものは、当てにしてはいけない。頼りになるのは、やはり自分の努力だと思います。それは人生においてもまた、同じことがいえるのではないでしょうか。
努力は人間に与えられた
最大の力です
──人生にも当てはまるとは。
生きていくうえで頼りにするものには、家族や親戚、友人などの人間関係や、金銭、財産などがあります。でもこれらは、いつでもどこでも当てになるものではありません。相手にも都合があるし、株が暴落して資産価値が下がることだってあります。
そうなると、頼れるのは、自らの努力です。努力も水泡に帰す時がある、と言う人もいますが、私は努力というものは必ず報われると思っています。練習でグラウンドを一周多く走ったというような努力でも、それは必ず報われる。成績に直接、結びつかなかったように見えても、それは生活のどこかで必ず生かされているのです。
微々たるものでも、自分が努力したことは確実に自分の身につく。一枚の紙は薄くても、一年間積み上げていけば、本の厚さになります。それで、私は色紙に「努力は人間に与えられた最大の力です」と書くようになりました。努力や精進は、人間にしかできません。
(中略)
円谷君のまいた種が
いま花開いている
── 須賀川市との関係も長くなりました。
円谷君が亡くなったことは今も残念でなりません。でも、地元に「円谷ランナーズ」が生まれ、そこから力のある陸上選手が次々に輩出されています。東京五輪男子一万メートルの代表となった相澤晃選手(旭化成)もその一人です。本はといえば、みんな円谷君がまいた種であり、それが今、こうした形で花開いているのです。
彼の偉業がみんなの心を結びつけ、頑張ろうという思いを起こさせているのです。私もこうして毎年、メモリアルマラソン大会で須賀川の皆さんと走らせてもらっているのも、彼のおかげなのです。
だから、57年めの聖火リレーは、どうしても円谷君と二人で一緒に走らせてもらいたかった。そして、これからも須賀川で走り続けたいと思うのです。
(『月刊なぜ生きる』令和3年8月号より)
本誌では、昭和39年東京オリンピックでともに走った円谷選手との熱い友情物語や、君原さんがマラソン選手になるまでの経緯などをご紹介しています。
全文をお読みになりたい方は『月刊なぜ生きる』令和3年8月号をごらんください。
『月刊なぜ生きる』令和3年8月号
価格 600円(税込)