【試し読み】白い牙|中仕切り(人生の折り返し)芝修一

久しく会わない隼人の友人から、めずらしい便りが届いた。

今日か明日かと待ち侘びた便りの封を切るのも心急くものだが、予期せぬ時に予期せぬ人から入手する便りほど心騒ぐものはない。

着替えも早々に、机におかれた十二、三枚もあろうかという厚い封を開いてみた。読み進めて友人が息災であることを確かめた。

なお、先にいくと、僕の書いた「中仕切り」と「霧島にて」の感想が長々と認めてある。

その内容はここでは披瀝しないが、手紙はそれだけにとどまらない。

「自分も既に齢70の坂を越した」と冒頭を置いて、自分の記憶の中仕切りだといって、10歳の頃のことが書かれてある。

その内容がおもしろく、また、めずらしい話だったのでつい繰り返し読んでみた。

読み終えた後も、なお、友人が心血を注いで書いた跡が偲ばれる、その話が、なかなか僕の胸から離れなかった。

子供の風習は、僕もこの年齢で経験したことであるから、今月の「中仕切り」は隼人から届いた彼の友人の「中仕切り」を書くのである。


僕の町には、男子が10歳になれば、海の遠泳と山中徒歩のどちらかを行うという子供の風習があった。

海の遠泳というのは、海岸から1キロメートルほど先の小島まで、一人で泳ぎきる――海といっても岸と小島の間は潮流が速く、泳ぐ距離はゆうにその二倍にはなる――もちろん、ただ一人でというのではない。小さな舟が一艘、脇を伴走する。

いま一つの山中徒歩は、霧島の山中をこれはただ一人で半日かけて歩き通す。

なぜ、このようなことをしなくてはならないのか、この由来を母に聞いたところ、「昔から続く大事なことだから」と言っていた。

僕は霧島の山中を歩くことにした。その理由は大したことではない。

僕の家は海のすぐ近くで、波の音も汐の香りも家の中まで入ってくる。

山は遠い。だから、歩いたことのない山に向かうことにした。

夏の休みの終わる頃だったかと思う。母と姉に見送られて、朝、一番のバスで霧島に向けて出立した。

「生ゴムの靴では山道は歩けまい」と言って、母がわら草履を三足、用意してくれた。一足は履いて、残る二足は二歳上の姉が持たせてくれた弁当と一緒に肩に背負った。

バスは一時間ほどで霧島の登り口のある小さな町に着いた。名前も知らない町だ。

狭い道沿いに農家らしい小さな家が数軒たっている。この道だろうと見当をつけて歩くとすぐ、道は途切れた。はて、道を間違えたのだろうか。山道への入口らしい所が見当たらないと、案じていると、たまたまそこへお百姓風の男の人が来あわせたので、霧島への入口はここでいいのかと聞くと、よく聞かれるとみえて、ためらいもなくそうだと言って、指差す方を見ると、そこは熊笹やかずらで閉ざされて、まるで雑木林だ。

とてもそこが山道の入口とは思えない。

僕は少しためらったが、それでもくぐるようにしてそこを入ると、はたして一本の細い道が現れた。

幾重にも重なり合った枝葉の間を透かして、煌き揺れながら金色の様な陽が森の中に射し込んで、道の先まで白く照らし出している。

これが霧島の山道だと思って、勇躍、足を踏み入れた。そして、はじめての山道を一歩一歩土を踏みしめて歩いた。

草履の底が朝露に濡れた土にひんやりとしみてくる。

道は、地中で絡み合った大樹の根が地面にむき出している。かまわず、ずんずん歩いた。

歩くにつれてモミの木、アカマツ、ブナ……と、次第に木の種類も多くなってくる。

ケヤキなどの大樹から生えている数々の美しい形の寄生木が、射し込む日差しに白く輝いている。

一足ごとに変わる森の様子は、初めて見る光景だった。

山道の様子はもちろん、森の音も全身を耳にして聞き逃さないように気を引き締めて歩いた。

それが、山道に入ってどれほど歩いた頃だろうか、歩くこの道は間違いなく霧島の森の中だというのに、森の音はおろか、鳥の鳴き声一つ聞こえないことに気がついた。

単調で踏み込む草履の音も吞み込んでしまうような底の知れないまるで海の中を歩いているような気がしてきた。

そして、歩きながら自分の心がだんだんその静けさの中に浸っていくような不思議な気持ちになって、すべての感覚を緊張させて歩いた。ところが、森もだいぶん奥に入り、自然も深くなって、山の寂しさを感じ始めた頃だった。僕の足音に合わせるようにして、どこからか低く、重々しい唸るような声がしてきたのだ。それはまったく異様な声で、決して人間のものではない。地の底からでも聞こえてくるのかと思うような、まるでこの山道になじまない、恐怖すら感じさせる声だった。

僕はハッ!と思って足を止めた。そして見えない声に耳を澄ませた。

(『月刊なぜ生きる』令和3年11月号より)

異様な声の主は何だったのでしょうか・・・!?

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