【試し読み】鳳凰堂に込めた、藤原氏の願い|歎異抄の旅
前回に引き続き、京都府宇治市の平等院を訪ねて、誰が、どんな願いを込めて鳳凰堂を建立したのか、明らかにしていきましょう。
満月のような幸せ
まず、目指すのは、京都御苑にある藤原道長の邸宅跡です。
平等院からJR 宇治駅へ戻り、奈良線で東福寺駅へ。
ここで京阪電車に乗り換え、北へ向かいます。比叡山の方向です。車窓からの景色を眺めていたのも束の間、電車は地下へ入っていきました。終点の出町柳駅まで、地下鉄になるのです。
出町柳駅から地上へ出ると、すぐそばを鴨川が流れていました。
賀茂大橋を渡って、10分ほど歩くと京都御苑です。約100ヘクタールもある広大な公園です。道長の邸宅は、この中にありました。
その場所を探し当てましたが、建物は、何もありません。広い土地に、緑の草が生い茂っているだけでした。
しかしここは、道長が人生の中で、最も幸せな時期を過ごした場所なのです。それを証明する立て札が、ぽつんと一本、大きな木の前に立てられていました。次のように記されています。
土御門第跡(つちみかどていあと)
平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長(ふじわらのみちなが)の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第(じょうとうもんてい)、京極第(きょうごくてい)などとも呼ばれました。道長の長女彰子(しょうし)が一条天皇のお后となり、里内裏である当邸で、後の後一条天皇(ごいちじょうてんのう)や後朱雀天皇(ごすざくてんのう)になる皇子達も、誕生しました。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌は、この邸(やしき)で催された宴席で詠まれたといいます。
娘が天皇の后となり、孫が次々に天皇になっていきます。藤原家にとっては、これ以上ない繁栄を手にしたのです。
道長が詠んだ歌を、意訳すると、次のようになります。
この世をば わが世とぞ思う 望月の欠けたることも なしと思えば
(意訳)この世は、私のためにあるようなものだ。今宵の満月には、欠けたところがないように、私の願いで、かなわないものは一つもない。最高の幸せ者だ。
いかに道長が、得意の絶頂であったかが分かります。
道長は、日記を書いていました。25年間も丹念につけていましたので、何を考え、何に取り組んでいたかを、よく知ることができます。
満月の夜に、祝いの酒宴を催し、この幸せあふれる歌を詠んだのは、寛仁(かんにん)2年(1018)10月16日でした。53歳の時です。
ところが、年が明けると、急に体調を崩します。
1月10日の日記には「胸の発動、前後不覚」、17日には「胸の病発動し辛苦終日」と記し、胸の痛みに苦しむようになります。
2月6日には、「目尚お見えず、二、三尺相去る人の顔見えず、只手に取る物ばかり之を見ゆ」と書いています。目が悪くなり、近くの人の顔がぼやけて見えない、手に取った物しか見えない、目が見えなくなるのではないか……と不安をつづっています。
3月に入ると、さらに目が悪くなり、胸の苦しみも治まりませんでした。「この世では、自分の思いどおりにならないものはない」と、あれほど豪語して いた道長も、「病」と「死」には、どうすることもできなかったのです。
極楽へ往生したい
「このまま、死ぬのではないか」と思うと、ますます不安が高まります。
道長は、3月21日に出家しました。これには親族から引き止める声もあったようです。しかし、「死後、極楽へ往生したい」という強い思いが、道長を動かしました。
さらに、浄土往生の願いをかなえるために、自分の屋敷の近くに、広大な寺院を建立することにしたのです。
(『月刊なぜ生きる』令和3年11月号より)
晩年の道長は極楽往生を願う日々を過ごしています。詳しくは『月刊なぜ生きる』令和3年11月号をごらんください。
『月刊なぜ生きる』令和3年11月号
価格 600円(税込)