【試し読み】『平家物語』と『歎異抄』俊寛の鹿ケ谷へ|歎異抄の旅

祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

『平家物語』とは、清盛をはじめ、平家一門が滅びていく物語だと思っている人が多いのではないでしょうか。

実は、平家も、源氏も、その他の人たちも、皆、無常の世を生きていたのであり、いつまでも続く幸せはないことを教えているのです。

しかも、それは『歎異抄』のメッセージと同じだと言ってもいいでしょう。

今回は、『平家物語』の冒頭で大きな存在感を示している俊寛(しゅんかん)にスポットライトを当てます。

俊寛というと、すぐに思い浮かぶのが、「鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀」ではないでしょうか。

大きな騒動を起こし、南海の孤島へ流刑になった人物として、能や歌舞伎でも演じられてきました。「そういえば、学校の教科書に載っていたな……」という人も多いと思います。

では、鹿ケ谷とはどんな場所なのか?

そこで何があったのでしょうか。

山荘で秘密の会合

平安時代の末期に、政治の実権を握っていたのが平清盛でした。

出世を願う人たちは、少しでも清盛に近づき、気に入られようとしていました。清盛が右へ行けば、皆、右へ行きます。左を向けば、皆、左を向きます。まさに、風の吹く方向に、すべての草木がなびくような光景だったのです。

しかも、清盛の弟だ、子供だ、孫だ、というだけで、周囲から持ち上げられ、恐れられていました。どんな名門の貴族であっても、平家一門に、面と向かって何かを言える者は、一人もなかったのです。

まさに平家を中心に、世の中が動いていました。

当然ながら、貴族たちに不満がたまっていきます。

その中でも、希望する役職に就けなかった藤原成親の怒りが爆発します。自分と同じような不平、不満を持つ輩を集めて、平家を打倒する計画を練り始めたのです。

その秘密の会合場所に選ばれたのが、鹿ケ谷にあった俊寛の山荘でした。

『平家物語』には、「東山の鹿ケ谷には、城のような堅固な山荘があった」と記されています。

現在、建物は残っていませんが、俊寛の山荘跡を示す石碑が建っているようです。現地へ向かって、確かめてみましょう。

銀閣から哲学の道へ

京都駅からJR奈良線で一つめの駅が東福寺です。

ここで京阪電車に乗り換えて、北へ進みます。

終点の出町柳駅に到着すると、すぐそばを鴨川が流れていました。

駅前から市バスに乗って、十分ほどで慈照寺銀閣の近くに着きました。目の前に、東山がそびえています。

山のふもとを流れる小川に沿って、南へ約1.6キロメートル続く散歩道が、有名な「哲学の道」です。

東山のふもとを流れる小川に沿って続く哲学の道

鹿ケ谷へ行くには、この哲学の道をゆっくり歩くのが、風情があって、とても心が和みます。春は桜、秋は紅葉が美しい場所です。私が訪おとずれた10月末日は、紅葉には、まだ少し早い時季でした。

哲学の道の途中で、「霊鑑寺(れいかんじ)」「安楽寺(あんらくじ)」を指す標識が出てきたら、東山の方向へ左折します。

哲学の道の途中で左折し、東山へ向かう

ここから、つらい坂道が続きますので覚悟が必要です。

途中まで上ると、道路脇に、「此奧(このおく)俊寛(しゅんかん)山荘地」と刻まれた石柱が建っています。ここまでのルートの中で、初めて「俊寛」の名前を目にしました。「もう、近いのかな」と思って、さらに坂を上っても、それらしきものは見つかりません。とても急な傾斜です。足を上げると体が後ろに反り返る感じがするくらいです。

坂道の途中に「 此奧 俊寛山荘地」の石柱

(『月刊なぜ生きる』令和3年12月号より)

このあとレポーターの木村耕一さんが険しい登山道(!)を進み、俊寛の山荘へと向かいます。

能や歌舞伎でも演じられる俊寛にどんなドラマがあったのでしょうか。

全文をお読みになりたい方は『月刊なぜ生きる』令和3年12月号をごらんください。

『月刊なぜ生きる』令和3年12月号
価格 600円(税込)