歎異抄の旅【滋賀編】
木曽義仲の遺児との出会い
妻と幼子を都に残し、流刑地・越後(新潟県)へ向かわれる親鸞聖人(しんらんしょうにん)。
近江国(滋賀県)へ入ると、琵琶湖を船で北上されました。
さて、その船は、どの港に着いたのでしょうか。
おそらく湖北の海津港ではないかといわれています。現在の高島市マキノ町海津です。
「海津」の地名は、『平家物語』『源平盛衰記』などにも出てきます。古くから北陸と都を結ぶ重要な港であり、宿場町として栄えていた所です。
現在は、どうなっているでしょうか。
『平家物語』に出てくる
「海津港」は、どこにあった?
まず、高島市のJRマキノ駅まで車で行ってみましょう。
大津から、琵琶湖の西側を北上します。バイパスが整備されていますので、車での移動は、とてもスムーズでした。
途中、右手に見えてくる湖の景色はとても美しく魅力的です。水面の色が、所によって、濃い群青になったり、深い緑になったり、日光を反射してキラキラ輝いたりして変化していくのです。
大津からJRマキノ駅までは、車で約一時間半で着きました。
駅の正面から琵琶湖へ向かって、真っすぐに道路が延びています。車を止めて歩いてみましょう。10分ほどで大きな門のような建物が見えてきました。「湖のテラス」と名づけられています。
この門をくぐると、澄んだ水をたたえた湖が目の前に広がっていました。ベンチがいくつも置いてあります。どうやら水泳やキャンプを楽しめる場所になっているようです。
地元の人に、「親鸞聖人が上陸された海津港は、どこにあったのでしょうか」と尋ねると、「ここじゃないよ」の返事。
「海津は、もっと向こうだ。この道をずっと行くと、道路脇に『旧海津港跡』という案内板が立っているから」と教えてもらいました。
しかし、なかなか見つかりません。15分ほど歩くと、ようやく一般の住宅の前に、「旧海津港跡」という案内板がありました。要約すると、次のように書かれています。
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海津港は平安時代の末期から発展し始め、豊臣秀吉の時代には大津に次ぐ大きな港として栄えた。
明治3年には、大津と海津の間に蒸気船の航路が開かれた。その桟橋は、現在、杭のみが残っている。
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この案内板が立っている住宅と住宅の間には細い路地があり、琵琶湖へつながっています。
浜辺に出てみると、水面に黒い杭のようなものが突き出ている所がありました。岸から沖へ向かって並んでいます。これが案内板に書かれていた桟橋の跡なのでしょう。
明治時代は、ここから蒸気船が発着するにぎやかな港だったのです。
平安時代の末期から、交通の要衝として発展してきた港ですから、越後へ向かわれる親鸞聖人一行を乗せた船も、この辺りに着いたに違いありません。
海津に逃れていた
木曽義仲の側室・山吹御前
海津港に上陸されたあとの親鸞聖人の足跡をたどってみましょう。
流罪地・越後へ向かう道中でありながら、親鸞聖人は、行く先々で、出会った人たちに法話をされています。
この海津では、『平家物語』で有名な源氏の武将・木曽義仲(きそよしなか)の側室、山吹御前(やまぶきごぜん)との出会いがありました。その経緯は、願慶寺の縁起(由来)に記されています。
木曽(源)義仲が近江の粟津で討ち死にした時、山吹御前は身重の体でした。義仲の子を宿しているのですから、敵に見つかったら殺されてしまいます。
彼女は、湖北の海津の辺りまで逃れてきました。そこで近くの有力者に助けられ、無事に男の子を出産することができたのです。
それから20数年後に親鸞聖人が、琵琶湖を船で渡り海津港へ上陸されたのです。
山吹御前と成人した息子は、義仲を殺した者たちを恨み、報復しようとしていました。しかし、親鸞聖人のご法話をお聞きし、世の儚さを知らされて、二人そろってお弟子になったと伝えられています。母と子が草庵を結んで、親鸞聖人の教えを伝えたのが願慶寺の始まりでした。
願慶寺は、旧海津港跡から歩いて10分ほどの所にあります。寺の門を入ると、鐘撞き堂のそばに紅梅の大木があり、石碑に、「この紅梅は木曽義仲の室山吹御前の遺木なり」と刻まれていました。山吹御前が出家する時に切った約1メートルの髪も残されているようです。
(『月刊なぜ生きる』令和4年8月号より)
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『月刊なぜ生きる』令和4年8月号
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