歎異抄の旅【北陸編】
義経、弁慶の「勧進帳」と
富山県の「如意の渡し」
一両編成の赤い列車で、旅に出ましょう。
富山県の高岡駅からJR 氷見線の列車に乗りました。単線なので、一時間に一本くらいしか運行していません。車両はディーゼルエンジンで動くワンマンカーです。東京の地下鉄などに比べたら、エンジン音が大きく、車両の揺れも気になりますが、どこか懐かしい気持ちになります。
まず、伏木駅で降りて「如意の渡し」を訪ねましょう。ここには、源義経と親鸞聖人の、対照的なエピソードが伝わっているのです。
弁慶の涙は、何のため?
小矢部川の河口で起きた事件
伏木は、古くから開けた港町でした。ここが越中(富山)の中心であり、国府(現在でいえば県庁所在地)だったのです。
奈良時代には、『万葉集』で有名な大伴家持(おおとものやかもち)が国守(県知事にあたる役目)として赴任し、多くの歌を詠んでいます。
伏木の駅舎は、赤い瓦が印象的です。どこか、歴史を感じさせるたたずまいがあります。
駅前には、「如意の渡し」というプレートがつけられた義経と弁慶の銅像が建っていました。二人は山伏に変装しています。しかも、座り込んだ義経を、弁慶が恐ろしい形相で打ちすえているのです。これは何を表しているのでしょうか。
伏木駅の裏手には、小矢部川が流れており、日本海に注いでいます。その河口が伏木港です。
当時、小矢部川には橋がなかったので、向こう岸へ渡るには、船に乗るしかありませんでした。
ここには「如意の渡し」と呼ばれる渡し船が運航していました。その船着場で事件が起きたのです。『義経記』に記されている顛末を要約してみましょう。
◆ ◆
義経は兄である源頼朝から命を狙われ、奥州(岩手)へ向かって逃げていました。
頼朝は、義経を捕らえようと、全国へ司令を出していましたので、どこを通っても厳しい詮議を受けます。そこで、義経の一行十六人は山伏に変装し、北陸道を北へ北へと急いでいたのでした。
倶利伽羅峠*を越えて越中に入ると、目の前に大河(現在の小矢部川)が現れました。
義経一行が、「如意の渡し」の船に乗り込んだ時のことです。
「しばらくお待ちください」と、役人が声をかけてきました。
続けて、「役所へ届けを出さない限り、山伏を通してはならぬと定められています。さあ、船を下りて、役所へ来てもらいましょう」
すかさず弁慶が立ち上がり、役人をにらみつけ、「この中に、義経殿がいると疑っているのだな。いったい、誰が義経殿か、分かっているなら明確に示してみよ」
役人は、船の舳先に座っている男を指さして、「あいつが、間違いなく義経殿だ」と言い切ります。
見破られた弁慶は、意外な行動に出ます。
「あれは白山*から連れてきた法師だ。これまでも、義経殿に似ていると何度も疑われ、我々もひどい目に遭ってきた。本当に、どうしようもないやつだな」と言って、義経を船から引きずり下ろしてしまったのです。
さらに、「おまえなんか、とっとと白山へ帰ってしまえ」と叫び、腰に差していた扇を抜いて、情け容赦なく義経を打ち、殴り倒したのでした。
ぼう然と見ていた役人は、「まあ、待て。本当の義経殿であったら、そこまではしないだろう。その若い男がかわいそうだ。まるで、私が打ちすえているようではないか。もうやめてくれ。さあ、乗るがよい」と言って、船を岸に近づけてくれたのです。
このようにして義経一行は、危機を脱し、小矢部川を渡ることができました。
富山湾沿いを北へ向かって歩き、役人の姿が見えなくなるや、弁慶は主君のそばに駆け寄ります。ひざまずいて、義経の袖にすがって言うのでした。
「いくら主君の命を救うためとはいえ、私は、ひどいことをしてしまいました。いつまで、こんな恐ろしい罪を造り続けねばならないのでしょうか。この報いが、恐ろしゅうございます」
あれほどの豪傑が、涙を流して号泣するのでした。
◆ ◆
弁慶の無念の涙は、何を物語っているのでしょうか。
義経は、源平の合戦で、華々しい成果を上げた武将です。その戦いの陰には、常に、弁慶の支えがありました。 主君を信じ、主君に付き従ってきた弁慶が、今度は、主君を殴る役を演じなければならなくなったのです。
世の不条理を、身にしみて感じ、嘆く弁慶……。
しかし親鸞聖人は、世の中は、理不尽で、不条理で、無常だからこそ、あきらめずに「永久に変わらぬ幸せ」を求めて生きる大切さを、『歎異抄』に述べられています。
*俱利伽羅峠……富山県と石川県の境にある峠
*白山……石川県、福井県、岐阜県にまたがる山
(『月刊なぜ生きる』令和4年10月号より)
続きは本誌をごらんください。
『月刊なぜ生きる』令和4年10月号
価格 600円(税込)