歎異抄の旅
「忠臣蔵」の舞台 江戸城「松の廊下」を訪ねて
赤穂藩の大名の怒りが、多くの人の生涯を変えてしまった

今回から、「忠臣蔵」ゆかりの地を訪ねてみましょう。

江戸時代に、赤穂藩の浪士47人が主君の仇討ちを果たし、社会に大きな衝撃を与えた事件を、『歎異抄』の視点で読み解いてみたいのです。

まず、この「元禄赤穂事件」の発端となった江戸城「松の廊下」の跡地へ向かいます。

江戸城は、徳川家康が築いた日本最大の城でした。内郭(内側の囲いの中)だけでも周囲約7.8キロもあったのです。

しかし、徳川幕府が崩壊すると、明治時代に取り壊され、江戸城の跡地は皇居になりました。

赤穂藩の大名の怒りが、
多くの人の生涯を変えてしまった

JR東京駅の、丸の内中央口から出ると、駅前広場は人でいっぱいでした。

駅から歩くと、十数分で大手門に着きました。

大手門は、江戸城の正門です。

江戸城の正門にあたる大手門

かつて、参勤交代で江戸に滞在していた大名たちは、ここから登城していたのです。大名と一緒に中に入れる人は限られていたので、多くの従者が、この門の前で、主人の退出を待っていたといいます。

私が江戸城跡へ向かったのは、5月4日でした。晴天に恵まれた休日とあって、大手門には、観光客の長い行列ができていました。

江戸城の本丸、二の丸、三の丸にあたる部分が庭園になっており、無料で一般に開放されているので、人気観光スポットになっているのです。

入り口が混雑している理由は、警察が、入場者の手荷物検査をしていたからでした。最近、政府の要人を狙った銃撃や爆弾テロが続いているため、警戒が厳重になっているのでしょう。

城内には、巨大な石垣が美しく積み上げられている

城内は、何重にも門があり、巨大な石垣で守られています。

こんな大きな石を、人の力で、美しく積み上げるには、どれだけ苦労しただろうか、と思わずにおれません。

江戸城の始まりは、室町時代に太田道灌(おおた どうかん)が築いたものです。しかし、規模も小さく、家康が江戸に入った頃は、かなり荒廃していたといいます。

慶長8年(1603)に、家康が征夷大将軍に任命されてから、江戸城を日本の政治の中心とするため、大規模な拡張工事が始まったのでした。

建設工事は、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の代まで引き継がれ、完成まで約30年もかかっています。

大手門をくぐって5分ほど歩くと、本丸跡に出ました。現在は、芝生を敷き詰めた広場になっています。

広場の北側には、造りかけのピラミッドのような、石垣の山がありました。

これは天守の土台です。

本丸跡の北側に残っている天守台

三代将軍・家光の時に、高さ58メートルの天守が建てられました。現代の建物でいうと、20階建てのビルに相当する高さです。

しかしその後、江戸の大半を焼いた明暦の大火(1657)で、威容を誇った天守が焼失してしまったのです。

再建するため、徳川幕府は、加賀藩*の前田家に、土台の積み直しを命じました。

前田家は威信をかけて約5,000人を動員し、瀬戸内から巨大な御影石を江戸へ運び、天守の土台を完成させたのです。あとは、この上に、壮大な天守を築くだけになっていました。

ところが、天守の再建に莫大な経費をかけるよりも、未曽有の火災で壊滅した城下の復興に力を注ぐべきだという意見がわき起こり、延期になったのです。

それ以降、天守が再建されることはありませんでした。

この土台は「天守台」と呼ばれ、観光客も上まで登ることができます。

天守台から本丸跡を眺めると、いかに広大な城が、ここに建っていたのかが分かります。

浅野内匠頭と
吉良上野介の衝突

「松の廊下」は、本丸の西側にありました。

大広間から、将軍との対面所である白書院へ向かう、長さ50メートル以上もある廊下だったといいます。

現在は、「松之大廊下跡」と刻まれた石碑と説明板だけが、ひっそりと建っています。

「松之大廊下跡」の石碑

この場所で事件が起こったのは、元禄14年(1701)3月14日でした。

赤穂藩五万三千石の大名、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)(35歳)が、突然、「おのれ! この恨み……」と叫んで刀を抜き、自分の役目柄の上司にあたる吉良上野介(きらこうずけのすけ)(61歳)に斬りかかったのです。

江戸城内で刀を抜いたら、わが身は切腹、家名断絶が、当時の掟でした。そういうことは、百も千も承知していながら、内匠頭は、やってしまったのです。

*加賀藩……現在の石川県金沢市を本拠地として治めていた藩

(『月刊なぜ生きる』令和5年6月号より)

続きは本誌をごらんください。

『月刊なぜ生きる』令和5年6月号
価格 600円(税込)