吉水草庵は、どこにあったのか『歎異抄』に記された問答|歎異抄の旅
法然上人(ほうねんしょうにん)は、京都の吉水草庵で、すべての人が平等に救われる教え、弥陀の本願を説いておられました。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)も、29歳の時に 吉水草庵を訪ねて、 法然上人のお弟子になられました。 親鸞聖人の言葉を記した『歎異抄(たんにしょう)』にとっても、「吉水草庵」は、とても因縁深い場所なのです。
では、 吉水草庵は、本当は、どこにあったのでしょうか?
こんなことを言うと、「何を、今さら!」とお𠮟りを受けそうです。
京都の円山公園の近くにあったことは確かです。
観光案内にも、円山公園の奧にある安養寺が「吉水草庵跡」だと記されています。
この連載でも、安養寺を訪ねて写真を撮り、令和3年1月号に掲載しました。
門前には、「吉水草庵」と、石碑にハッキリ刻まれています。
それでも疑問を感じたのは、安養寺の本堂が、とても狭かったからです。数十人も入ったら、座りきれないくらいでした。
法然上人が説法されていた時には、身分を問わず、大勢の人が参詣していたと伝えられています。
天台宗や真言宗などの伝統仏教の僧侶たちは、「このままでは、日本中が、浄土仏教になってしまう」と恐れたほどでした。
「きっと、もっと広い場所に吉水草庵があったに違いない」
こう思って、再び、京都の安養寺を訪ねてみました。
本堂への石段を上っていくと、ちょうど、寺の人がいたので聞いてみました。
「ここは高台なので、眺めがいいですね。でも、この本堂で、法然上人が説法されたのでしょうか。あまり多くの人が入れませんね……」
すると、「今、住職は入院中なので、よく分かりませんが、この本堂よりも、下のほうの広場だったと聞いていますよ」という答え。
そこで、『漢語灯録』など、法然上人関係の資料を調べてみました。
すると、吉水草庵は、「中の房」「西の房」「東の房」から成り立っていたようです。
法然上人が、吉水で最初に住まわれたのが「中の房」であり、ここに多くの参詣者が集い、ご法話をお聞きしていたのです。現在の知恩院の御影堂の辺りです。
その後、法然上人の門弟が増加するにしたがって、「西の房」「東の房」が建てられたと推定されています。
現在、「吉水草庵跡」として有名な安養寺の場所には、「東の房」、つまり、お弟子たちの宿舎があったのです。
これで謎が解けました。
法然上人の吉水草庵は、「吉水の禅房」とも呼ばれており、現在の知恩院から安養寺までを含む、実に広大な敷地を有していたのです。
(『月刊なぜ生きる』令和4年2月号より)
続きは本誌をごらんください。
『月刊なぜ生きる』令和4年2月号
価格 600円(税込)