鎌倉殿と『歎異抄』|なぜ起きた、義経の悲劇

源義経といえば、悲劇のヒーロー。

命懸けで頑張ったのに認められず、理不尽な仕打ちを受けて殺された武将……という印象が強いと思います。

同情し、悲しむだけでは、涙しか残りません。なぜ、悲劇が起きたのか。今回は、義経の「腰越状(こしごえじょう)」を、『歎異抄(たんにしょう)』から読み解いてみましょう。

義経が「腰越状」を書いた場所は、神奈川県鎌倉市の満福寺だといわれています。満福寺は、前回でも訪問しましたが、江ノ島電鉄( 江ノ電)の腰越駅から歩いて5分もかからない所にあります。

江ノ島電鉄の踏切を渡ると満福寺の山門

寺の裏手の高台に登ると、眼下には青い海が広がっていました。相模湾に浮かぶ江の島から片瀬海岸までを一望することができます。景色のいい所です。義経と弁慶たちも、ここから海を眺めていたに違いありません。しかし、晴れ晴れした心境ではありませんでした。かなり、いらだっていたはずです。

義経は、鎌倉殿である兄・源頼朝の命令に従って平家と戦い、華々しい成果を上げました。平家を滅ぼしたのです。

「兄に報告して、褒めてもらいたい」という思いで、鎌倉へ向かっていました。しかも、敵の総大将・平宗盛を生け捕りにし、捕虜として護送してきたのですから、得意満面だったはずです。

ところが鎌倉殿(頼朝)は義経に、

「鎌倉に入ってはならない。捕虜の身柄を引き渡したら、腰越(*鎌倉の西の端)まで戻って待機するように」

と命じたのでした。

義経には、何が起きたか、さっぱり理解できません。腰越の満福寺に滞在し、次のように憤慨していたといいます。

「一谷、壇ノ浦と、私は命を捨てて平家と戦い、平家の大将軍を捕虜にして、ここまで連れてきたのだ。それなのに、鎌倉殿(頼朝)は、なぜ、会ってくれないのか。

本来ならば、私の功績を重んじて、九州、山陰、山陽など、日本のどこかを任せると言ってもらえると思っていたのに、それもない。本当に残念だ。何を、どう謝ったらいいのか、全く分からない」

満福寺の境内には、「腰越状」の下書きをする
弁慶(左)と、義経(右)の像が置かれている

(『月刊なぜ生きる』令和4年5月号より)

続きは本誌をごらんください。

『月刊なぜ生きる』令和4年5月号
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