歎異抄の旅【番外編】
越後の鳥屋野を訪れた意外な人物
越後の鳥屋野を訪れた
意外な人物
今回は、新潟の番外編です。
もし、自分や、自分の大切な人を、ひどい目に遭わせた者が謝ってきたら、笑顔で許せるでしょうか……。
親鸞聖人は35歳の時に、京都から越後(現在の新潟県)へ流刑になりました。
流罪人として自由を束縛されながらも、越後の各地へ足を運び、精力的な布教を展開されたのです。
中でも、「逆ダケの藪」で知られる新潟市の鳥屋野には、草庵(寺)が建立され、とても多くの人が、親鸞聖人の法話を聞くようになったといわれています。
やがて京都から、親鸞聖人の流罪を解くという知らせが届きました。
しかし、自由な身になった親鸞聖人は、京都へは戻られませんでした。
「なぜ生きるのか」を知らず、苦しみ悩んでいる人は全国に満ちています。すべての人に、弥陀の本願を伝えたいと、関東へ向かわれたのでした。
それから10年ほどたった、ある日のことです。親鸞聖人は、関東から越後へ戻られ、鳥屋野の草庵で、多くの参詣者に、弥陀の本願を説いておられました。
すると意外な人物が、「なぜ生きるの答えを教えていただきたい」と言って訪ねてきたのです。順徳上皇でした。
この人は、後鳥羽上皇の息子です。
後鳥羽上皇は、権力を乱用して、法然上人と親鸞聖人を流刑にした人物です。
それだけではありません。親鸞聖人の友人を4人も、無実の罪で処刑したのです。
親鸞聖人にとって、この親子は、憎むべき権力者であったはずです。
はたして、どんな応対をされたのでしょうか。その光景は、『二十四輩順拝図会』*に記されています。
親鸞聖人は、順徳上皇に「菩提心」が起きたことを、とても喜ばれました。「菩提心」とは、仏教を聞きたいという心です。親鸞聖人は、一時は、欲や怒りの心で罪を犯した者でも、反省して、「仏教を聞かせてください」と言ってきた人を、笑顔で温かく迎え入れておられるのです。
続けて親鸞聖人は、順徳上皇に「一向専念の教え」を懇ろに教えられたと記されています。つまり、弥陀の本願を聞き求めることが、「なぜ生きる」の答えであることを明らかに示されたのです。
感激した順徳上皇は、鳥屋野の草庵に「勝興寺」という名を贈ったと伝えられています。
*二十四輩順拝図会……江戸時代に、了貞が親鸞聖人の旧跡を調査してまとめた書籍
(『月刊なぜ生きる』令和5年4月号より)
続きは本誌をごらんください。
『月刊なぜ生きる』令和5年4月号
価格 600円(税込)