【試し読み】『平家物語』ゆかりの祇王寺 「幸運って、何ですか」 四人の女性が選んだ道|歎異抄の旅

『平家物語』ゆかりの祇王寺は「悲恋の尼寺」として有名です。

二十歳前後の女性が中心となって開いた寺です。今から約八百年前に何があったのでしょうか。「悲恋」とは?

祇王寺に伝わる四人の女性の生き方を見つめ、『平家物語』と『歎異抄』の関係を確認する旅に出ましょう。

JR京都駅から、電車で18分ほどで嵯峨嵐山駅に着きました。駅の南側が、京都を代表する観光地・嵐山です。国内だけでなく、世界から大勢集まる超人気スポットです。

祇王寺は、そんなにぎやかな観光地の反対側、駅から北西へ約2キロ進んだ静かな山のふもとにありました。

祇王寺

『平家物語』の「祇王」の章を要約してみましょう。

◇ ◆ ◇

平清盛が、天下を思いどおりに動かす権力を握っていた頃のことです。

宴会などで歌謡や舞を披露する芸能人(白拍子)の中で、最も評判がよかったのが、祇王と祇女という名の姉妹でした。

姉の祇王が、平家の屋敷を訪れた時のことです。天女が羽衣をまとったような可憐な十七歳。その美しさは、武者の多い邸内で、輝きを放っていました。

清盛は、一目見るなり、祇王に惚れ込んでしまい、そのまま屋敷にとどめてしまったのです。その代償として、祇王の母に、りっぱな家を造って与えただけでなく、毎月、百石の米と百貫の金銭を贈り続けたのです。

貧しかった祇王の家族は、一躍、裕福になり、楽しい日々を過ごすようになりました。

都には、「祇王御前は、えらい幸運をつかんだものだ」「玉の輿に乗るとは、このことだ。今や、清盛公の側室だからな」と、たちまちウワサが広がりました。 

それから三年たった頃、芸能界に、キラリと光る新人が現れました。加賀国の出身で、名は仏御前。十六歳の女性です。

都では、「これまで、こんな上手な舞は見たことがない」と、彼女の人気は高まる一方でした。

仏御前は、積極的な女性です。

「誰に褒められようと、この国を動かしている清盛殿に評価されなかったら一番とは言えないわ。お招きがなければ、こちらから押しかけて、私の舞を見ていただきましょう」と、祇王に負けないほど美しく装って、平家の屋敷へ向かったのです。

清盛は、「都で評判の仏御前が参りました」と聞き、激怒します。

「厚かましいにもほどがある。ここに、祇王がいることを知らないのか。追い返せ!」

すると、そばにいた祇王が、清盛をなだめます。

「そんなに冷たく追い返されては、若い彼女が、どんなに落胆し、恥ずかしい思いをするでしょう。私も、芸の道に生きていますので、人ごととは思えないのです。どうか、会うだけでも会ってやってください」

心を動かされた清盛は、「そうか、おまえが、それほど言うなら、会ってやろう」と、態度を変えたのでした。

仏御前は、追われるように車に乗って、門から出るところでしたが、呼び戻され、広間へ連れてこられました。

遠い上座から、清盛は言います。

「今日は、会うつもりはなかったが、祇王が、あまりにも勧めるので、会ってやるのだ。顔を見るだけでは、つまらん。今様(歌)を一つ、歌ってみよ」

仏御前は、「承知しました」と清盛に一礼したあと、そっと祇王を見つめ、瞳で感謝の気持ちを伝えました。

彼女の澄み切った声が、広間に響きわたります。

歌い終わると、シーンと静まり、誰もが、心地よい余韻を味わっていました。

仏御前を見る清盛の目が変わってきました。「そなたは、今様が上手だな。舞もきっと素晴らしいだろう。誰か鼓を打て。仏御前の舞を見ようではないか」

舞こそ、彼女の得意中の得意。鼓に合わせて、艶やかに舞い始めました。その美しい姿には、十六歳の少女とは思えない気品があります。

恍惚とした顔つきで見入っていた清盛は、仏御前に、この屋敷にとどまるよう命じました。祇王から仏御前へ、完全に心が移ってしまったのです。

しかし、仏御前は喜びませんでした。

「何をおっしゃいますか。もともと私は、勝手にやってきて、一度は追い返された身です。お願いですから、早く帰してください」

清盛は、「そんなことは許さん。ははあ、祇王に遠慮しているのだな。よし、それなら、祇王に暇をやろう。直ちに実家へ帰らせることにしよう」と無造作に言い放ったのでした。


祇王は、いつか、こういう日が来ることは覚悟していました。

しかし、まさか今日が、その日になるとは夢にも思っていなかったのです。

清盛から、「早く出ていけ」と、しきりに催促が来ます。

彼女は、自分に与えられていた部屋を片付けていました。三年もの間、住み慣れた屋敷を追い出されるのは、名残惜しいだけでなく、恨みや悲しみが込み上げ、涙が止まりません。

いつまでも泣いているわけにもいかないので、祇王は、襖に一首の歌を書いて出ていきました。


萌え出ずるも 枯るるも同じ野辺の草 いずれか秋に あわではつべき

(新しく芽を出す草も、枯れていく草も、同じ野原の草です。やがて秋になれば、枯れてしぼんでいくのです)


祇王が去ったあと、襖に残された歌を見た人たちは、しんみりと考え込んでしまいました。

「萌え出ずる草」とは仏御前「枯るる草」とは祇王自身を例えています。

「青々と勢いよく伸びる草花も、やがて茶色に変わって枯れていきます。私にも、その時が来たのです」と無常の世を悲しんでいるのです。

また、「いずれか秋に」の「秋」には「飽き」の意味がかけられています。

「仏御前よ。いずれあなたも、私と同じように飽きられて捨てられるのですよ」と言い残したのでした。

(『月刊なぜ生きる』令和3年8月号より)

その後、祇王には悲運が続き二十一歳で髪を切り、妹の祇女と母と共に尼になったのでした。

ある日三人の草庵へ訪ねてきたのが仏御前でした。

悲恋を通して「幸運とは何か」生きる意味を見つめる女性たちの姿を描きます。

全文をお読みになりたい方は本誌をごらんください。

『月刊なぜ生きる』令和3年8月号
価格 600円(税込)