【試し読み】信長、秀吉と『歎異抄』|歎異抄の旅

「織田信長は、『歎異抄』に敗れた!」と言っても、いいのではないか──。

石山合戦の舞台となった大阪城跡を取材して、そう確信しました。

なぜなら、天下統一を急ぐ信長の進撃に、大きなブレーキをかけたのが、『歎異抄』の教えを守る本願寺の門徒たちだったからです。

もし本願寺門徒が、11年にもわたって徹底抗戦しなかったら、信長は、明智光秀に殺される前に天下を取っていたかもしれません。

では、大阪城と本願寺の関係は?

各地の門徒は、どんな思いで大坂へ結集し、信長と戦ったのか?

『歎異抄』の教えに照らし合わせて解明していきましょう。

信長と本願寺が戦った石山合戦

織田信長は、比叡山延暦寺へ兵を送り、わずか一日で、すべての寺を焼き尽くし、僧侶を虐殺しました。同じように、豊臣秀吉や明智光秀などの武将に命じて石山本願寺を攻撃します。しかし、浄土真宗の門徒は強かったのです。

11年間に及ぶ戦いの後に、和議が結ばれ、本願寺は大坂を明け渡して、紀伊(現在の和歌山県)の鷺森へ移ります。

信長が本能寺で明智光秀に殺されたあと、秀吉が天下統一を果たします。その権力の象徴として、石山本願寺の跡地に建設したのが大城だったのです。

秀吉の大城は、大夏の陣で徳川家康によって堀を埋められ、破壊されてしまいますが、後に再建されました。

真宗門徒の強さはどこから出てくるのか

織田信長と本願寺が、なぜ対立したのか──。そういう政治的、軍事的な背景は、ここでは論じないようにします。  信長が、浄土真宗の総本山であった石山本願寺を攻撃した時、全国の門徒は、どう行動したのかを見ていきます。

当時、日本には68の国がありました。そのうち、約半数の国から、大坂の本願寺へ門徒が集い、親鸞聖人の教えを守る戦いに参加したといわれています。人員だけでなく、武器、金銭、兵糧なども送られてきました。

浄土真宗の、この強い結びつきには、信長だけでなく、どの戦国大名も驚いたはずです。

本願寺が、信長の大軍に包囲されながらも、長い年月、籠城戦を続けることができたのは、全国の門徒による支えがあったからです。

『陰徳太平記』には、門徒の心境を表すエピソードが記されています。

石山本願寺の中へ入って一緒に戦いたいけれども、妻子や年老いた両親のことを考えると、そこまでできない門徒も多くいました。

それでも、戦況が心配でなりません。10人、20人と連れ立って大坂周辺に集まってきました。やがて、その数は1万人を超えたのです。

そこへ、信長の軍勢が、本願寺の反撃にあって退却してきたので、門徒たちは棒や竹竿、鎌などで打ちかかりました。

また、信長軍の兵士の中にも真宗門徒がいました。心ならずも、本願寺と戦うよう命じられた彼らは、弾丸を抜いた鉄砲を撃っていたのです。本願寺の城を射ないので「白犬衆(しろいぬしゅう)」(城射ぬ衆)と呼ばれていました。

このように、戦国乱世にあって、主君や領主の命令も聞かず、自分の信じる生き方を貫いた人たちがいたのです。

なぜ、ここまでして、本願寺を守ろうとしたのでしょうか。

それは、信長によって本願寺が破壊されては、親鸞聖人の教えを聞き求めることができなくなるからです。

自分の子供や孫、また未来の人たちに、正しい教えを伝えることができなくなるからです。

真宗門徒の、この強さは、どこから出 てくるのでしょうか。

そのヒントは、『歎異抄』にあります。

(原文)念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。(『歎異抄』第七章)

(意訳)弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。

※意訳は『歎異抄をひらく』(高森顕徹著)より

(『月刊なぜ生きる』令和3年5月号より一部抜粋)

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